@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00009752, author = {飯田, 卓 and Iida, Taku}, month = {Mar}, note = {神奈川大学日本常民文化研究所には、渋沢敬三とアチックミューゼアム同人が昭和初期に撮影した映画(動画)資料が継承されている。当時、興行以外の目的をもつ映画撮影は始まったばかりで、多くはアマチュア映画として撮影された。渋沢らによる映画は、どのように位置づけられるのだろうか。本稿では、この問いを明らかにするため、博覧会や博物館、映画など、公共の場で観覧された視覚メディアの状況を時代背景に照らしつつ整理する。そのうえで、渋沢がめざした民具学と公共視覚メディアとの関わりを整理し、その性格を従来とは異なった切り口で明らかにする。 渋沢たちが残した映画は、民具学を補助する手段として位置づけられていた。これは、もうひとつの公共視覚メディアである博物館の建設が民具学発展の不可欠なプロセスと位置づけられていたのと対照的である。こうした違いが生じた理由のひとつは、博物館が長期間存続して学術的な参照が可能になりつつあったのに対し、映画の上映はそのようなかたちで発展していなかったことにある。 渋沢がめざした民具学は、多数の研究者による共同研究であり、また地域の民俗事象全体との関わりで進められるべき総合研究であり、さらには博物館建設とも連動する啓発的研究だった。こうした「渋沢学」の文脈において、誕生後まもない映画は、学術資料としてというよりは、現地のようすを簡潔に伝えるコミュニケーション手段としての役割をはたすことが多かった。この事実は、渋沢らが撮影した映画の価値を下げるものではない。むしろ、当時の学術において視覚メディアがはたした役割を再評価することにつながろう。, Article}, publisher = {神奈川大学 国際常民文化研究機構}, title = {13 昭和初期の公共視覚メディア -渋沢民具学における映画と博物館-}, volume = {10}, year = {2015} }