@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00009748, author = {小林, 光一郎 and Kobayashi, Koichiro}, month = {Mar}, note = {渋沢敬三はアチックミューゼアム(以下、アチック)を設立し、且つ自身も研究を行いながら、アチックという団体・組織での研究や資料の収集・整理とその開示・提示という目標の下、一つの事象に対する総合的・客観的な姿勢、即断しない慎重な姿勢を基本に彙報やノートといった報告書や資料、自身が撮影した写真や16ミリフィルムの映像などを残した。 調査において敬三は、自身の社会的立場や人脈・情報網を駆使した調査や調査者間の仲介などを行い、調査地においては写真や16ミリの撮影に専心していた。この敬三撮影の写真や16ミリからは、被写体として当地の人々を写しこんだ撮影、駅表示板などの調査記録を残すという編集・上映も視野に入れた撮影という特徴などがあげられる。これは資料集や報告書の刊行だけでなく、写真や16ミリも資料の開示・提示の一環として考えていたという証左でもあるが、自身をとりまく状況から研究者としての限界を自覚し、直接的な調査活動よりも調査記録を主に担当していたことを示していた。 敬三はこのようなポジションに自身を置きつつも、自身の研究への「意思」を、アチックの「意志」として誘導もしていた。その具体的な表れの一つに「イトマン」(イトマンとして括られる人々や、漁民、船、あるいはこれらの移動・出漁などを指す概念)に対する関心や研究があり、薩南十島調査と隠岐調査の写真や16 ミリにはそれが如実に反映されていた。この「イトマン」へのまなざしは、以降のアチックの調査や、戦後の自身の活動にも見受けられたが、結果的には研究や報告としてまとまらなかった。 アチックの調査・研究を全体的に俯瞰した場合、敬三のポジションは、自身が持つ影響力を自覚・自省しながらも、自身の社会的立場や人脈・情報網を駆使しつつ、先駆的な資料の開示・提示法に専心し、後の報告書のための記録者という裏方のポジション(役割)であった。だが、敬三は自身の興味・関心である「意思」をアチックの「意志」へと導き、研究へとつなげていたのであり、その「意志」の一つとして「イトマン」があったのである。, Article}, publisher = {神奈川大学 国際常民文化研究機構}, title = {09 アチックミューゼアムの研究における渋沢敬三のポジション -イトマン・移動・出漁を事例に-}, volume = {10}, year = {2015} }