@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00009640, author = {王, 京 and WANG, Jing}, month = {Mar}, note = {従来の柳田研究では日本にとって最大の他者であった「中国」との関連が不明である。 本稿は1920 年代以前の状況を中心に柳田国男と中国の関係を整理し、考察する。  儒医の家庭に生まれた柳田は人一倍優れた漢文力の持ち主であった。幼少期では漢文に よって勉強、表現の基礎が出来ただけでなく、知識、観念や思考法なども漢文の読書を通 して形成していた。  明治末期、柳田の関心は文学から学問へと変わりつつあった。『遠野物語』を執筆する 発想やその書き方には、文章、学問、使命感が一体となっている『閲微草堂筆記』の影響 が大きかった。そして『石神問答』で日本の民間信仰の道教影響論を展開したことを始 め、1910 年代で伝説、地名、妖怪、信仰などを考察する際、常に中国のことを参照と し、積極的に中国影響論を唱えていた。中国は柳田にとって、対仏教のときの兄弟であ り、また西洋に接するときの基礎や参照でもあった。  一方1917 年の旅で柳田は現実の中国を初めて経験した。途中で北京などの訪問地を追 加して南北を一通り旅したが、中国の広さや南北の相違に驚きながら、混沌して先が見え ない現状も目にした。  中国を正しく知ることの重要性、その際、裏にいる大多数の人々について知ることが大 事だという理解は、帰国後に主張された「国民外交」の基礎となり、さらに後にヨーロッ パ経験を経て「常民の学」としての民俗学の発想に発展する。そして中国経験によって触 発された移民、南洋、家船などに対する関心も、人の移動・舟・島と関連して「海の生活 史」ともいうべき着想に発展し、沖縄への注目、そして『海上の道』に結実していく。  旅がもたらした中国への連帯感は「日華クラブ」や「海蘭鉄道」などの政治的な行動、 そして官界を離れてからも、時局関連の論説文や中国に関わる学問実践などに見られる が、同じ旅で中国への距離感も芽生えたように見受けられ、後の中国影響排除論の一因と もなる。, Article}, publisher = {神奈川大学 国際常民文化研究機構}, title = {09 柳田国男と中国 -1920 年代以前を中心に-}, year = {2013} }