@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00009622, author = {槙林, 啓介 and Makibayashi, Keisuke}, month = {Mar}, note = {本稿では、先史中国における稲作栽培体系の形成と伝播・拡散を、長江流域と広東・広 西地域を対象にして検討し、従来の中国考古学の中原中心史観を再考しながら先史中国の 多元的稲作化過程と地域社会について考察した。  まず、イネ遺存体などの自然遺物から構築した農耕論だけでなく、農耕具などの農耕技 術を表す栽培体系から構築する農耕論も相互に進めていく必要があるとし、栽培体系から みた長江流域とその地域社会について検討した。結果、少なくとも長江中流域と長江下流 域の二つの栽培体系の形成があったことを指摘した。大規模な城壁集落を中心とした広域 的な地域社会が両地域では独自的に成立したと同時に、稲作の栽培体系の確立でも異なる 道程を歩んだのである。中原中心史観のみで中国全体を捉えるだけでは不十分で、長江流 域の少なくとも中流域と下流域のふたつの地域でも「中心」の形成があったことを強調し た。  次に両流域系の栽培体系の伝播・拡散を、それぞれの流域を中心に据えて検討した。主 にイネ遺存体で語られてきた稲作の出現と伝播・拡散の解釈とは、明らかに栽培体系のそ れと異なることが分かった。栽培体系は耕作具と収穫具の関係から体系化した概念であ る。イネ遺存体が長江流域の周辺に拡散する分布を示すのに対して、先史時代においては 長江中流域系と長江下流域系の栽培体系全体が周辺地域に伝播・拡散することはなかっ た。長江下流域系は、良渚文化の衰退に伴い、東南中国の雲石山文化と石峡文化に一部見 られるが、体系的に確立した栽培体系が定着したとは現状認められない。  最後に、稲作のもうひとつの中心地帯である広東・広西の地域社会についても検討を行 った。当該地域の先史社会は、イネの利用あるいは稲作の存在を知っていたと推測される が、自らの生業経済を稲作経済へ移行させることなく、また長江流域系の稲作栽培体系も 基本的には受容しなかったことを指摘した。, Article}, publisher = {神奈川大学 国際常民文化研究機構}, title = {03 栽培体系の形成と伝播・拡散から見た先史中国の稲作と地域社会}, year = {2013} }