@article{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00009472, author = {王, 京 and Wang, Jing}, journal = {神奈川大学 国際常民文化研究機構 年報}, month = {Aug}, note = {本論は、日中両国民俗学発展史についての比較研究を視野に据え、従来日中両国の民俗学史研究ではあまり触れられてこなかった日中戦争までの両国民俗学の関わりの様相を究明し、その特徴、影響、限界などについて考察することを目的とする。 明治末に日本留学した周作人は欧米の理論を吸収しながら模索期の日本民俗学を見つめ、独自の学問観を形成していた。後に「民俗学」という用語を中国に導入し、北京大学を中心に歌謡収集や民俗学の提唱において指導的な立場を発揮しただけではなく、柳田国男を中心とした日本民俗学の良き理解者と紹介者でもあった。 何思敬は友人の関係で『民族』時代の日本民俗学に近い距離で接し、学問の社会使命感、欧米学問を吸収する重要性などを身をもって感じていた。留学中、中国の民俗学運動を紹介し、帰国後中山大学民俗学会の初期の活動に積極的に関わり、とくに欧米理論の導入に重要な役割を果たした。 1932-33年、鍾敬文、婁子匡を中心とした中国民俗学会は、日本の民俗学会との間に組織的な交流とも言うべき活動を展開したが、種々の理由で長続きしなかった。鍾は日本の学者との交流によって学問研究の向上に努め、30年代半ば日本留学も果たした。二人は民俗雑誌を根拠地に日本との関わりを保っていたが、日中戦争の勃発によって両国民俗学の関わりは途絶え、1980年代までほぼ空白を呈した。 留学を主とした契機にして、戦前中国民俗学の重要人物が日本民俗学と直接な関わりを持っていたが、両国の関わりは中国側が日本を経由して欧米理論を吸収するのが主要な形であり、しかも個人への依存度が大きく、継承関係もあまり見られなかったため、両国民俗学への影響が限定的であり、しかも両国の間にその濃淡の差が大きかった。, Article, 論文}, pages = {95--112}, title = {戦前期における日中民俗学の関わり}, volume = {2}, year = {2011} }