@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00008013, author = {森, 武麿 and Mori, Takemaro}, month = {Nov}, note = {忽那諸島調査から、瀬戸内海の離島、とくに中島を対象として、愛媛中島ミカン史を述べる。明治維新以降、瀬戸内海の島々に広がったミカン作の盛衰を通して、島の人びとの暮らしの変貌を明らかにすることである。そのためには①中島ミカンの導入はどのようにしてなされたのか、②忽那諸島の中島ミカン発展と瀬戸内海を通して市場との関係はどのようなものであったのか、③ミカンは忽那諸島の島々、中島町の経済構造をどのように変えたのか、の三つの課題を設定する。 第一の中島ミカン導入は和歌山有田の温州ミカンの伝来、広島からの伝来、そして中島在来の温州ミカンを基礎として他など、多様なルートが考えられるが、いろいろな説がある。現在の中島温州ミカンの導入の通説は、大浦の森田六太郎によるもので一八七二年(明治五年)、一八八七年(明治二十年)と移植年に違いがあるが、和歌山県有田からの苗木の導入である。 第二の忽那諸島とミカンと瀬戸内海の関係は、中世、近世以来の水軍と水運を前提に発展してきたことが明らかになる、とりわけ大正後期から昭和初頭、すなわち一九二〇年代から一九三〇年代のミカンの飛躍的発展の時期に、忽那諸島からミカン船で阪神市場にミカンが売られていったこと、さらには朝鮮、満洲市場へと海を通して広がっていったことが分かる。瀬戸内海の水運を考えなければ中島ミカン、島ミカンの今日の隆盛は理解できない。 第三のミカンと忽那諸島の経済構造の変化であるが、戦後高度成長による阪神、京浜市場向けの大衆消費は中島ミカンの爆発的発展をもたらした。この結果島の経済構造は完全にミカン専業化、ミカン栽培に一元化した。これをミカンモノカルチャーと表現したが中島町の経済構造の変化は愛媛県でもっとも典型的に展開したものである。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {忽那諸島の蜜柑史 -中島ミカンの近現代史-}, year = {2016} }