@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00008011, author = {関口, 博巨 and Sekiguchi, Hiroo}, month = {Nov}, note = {戦乱の四国・瀬戸内海域を転戦した「海の領主」二神氏は、天下一統後をどのように生きたのか。本稿では、二神島と 二神氏宗家(以下、二神家もしくは本島二神家)に視点をすえ、「近世」という時代を問い直す。 伊予の守護河野氏の滅亡とともに二神島へ帰った二神家は、松山藩領となった行政村「二神村」で庄屋役に就いた。歴代当主はそのほかにも、御城米船改御用や朝鮮通信使来朝御用などを担い、近世の海上交通網のなかに自らを位置づけ、長崎貿易に不可欠な煎海鼠の生産を請け負うことで、いわゆる「鎖国」政策にも適応してみせた。二神家は中世の「海の領主」から近世の「島村の庄屋」へと転身したのである。 近世の伊予では、島嶼部でも検地、村切りが実施され、行政単位の村が多数設定された。島嶼に設定された行政村を、本稿では「島村」と呼び、いくつかの類型を想定した。「島村」のひとつの典型を示す二神村は、二神島のほか由利島をはじめとする複数の無人島からなり、その島々の領有を根拠に忽那諸島でも最大規模の海域支配を誇った。 二神島の人々は、村域の海と山から計り知れない恩恵(鰯・海鼠・材木・石材・野菜など)を受けていたが、一八世紀に入ると、伊予本土における農業生産力の向上を目論む松山藩が由利島を肥草山として収公しようとたびたび画策したため、二神家歴代当主はこれに粘り強く抵抗している。 とくに種章にとって、松山藩との命懸けの駆け引きは、二神家や忽那諸島の歴史に向き合う契機となった。安永年間以降、各種古文書の写しや『予陽河野盛衰記』などの写本類を数多く収集し、「豊田二神藤原氏系図略」や『油利島録』などの系図・由緒書類をまとめあげていく。種章による「二神島庄官」という自称は、それらの編纂過程で醸成された自意識にほかならない。その自称には再解釈された「海の領主」の矜持が垣間見える。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {伊予二神島の近世 -瀬戸内海における「島村」の形成-}, year = {2016} }