@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00008010, author = {田上, 繁 and Tagami, Shigeru}, month = {Nov}, note = {近年、近世史研究においては、通説とされていた「幕藩制構造論」では説明できない歴史事象がいくつも現れてきた。とくに、「太閤検地」で確立した本百姓体制そのものの見直しが不可欠となっている。政策基調とされた「太閤検地」の性格が見直されるなら、当然、村という地域社会のあり方や村を構成する本百姓の性格も再考されなければならない。 二神家は中世には瀬戸内海の「海の領主」として君臨した家であるが、近世に入っても中世からつながる家同士の結合を末家・又末家関係を通して継承する一方で、庄屋として村行政を担う立場を築きながら、松山藩の家臣や寺院、さらには医者などとの縁組みなどによって新たな関係を構築しようとした。こうした動きは二神家の近世的な対応と捉えることができ、土地を介在にして二神家と結びつく家々との関係は、中世以来の結束を維持、強化しようとする中世からの継承を重視した動きであったといえる。つまり、近世に入って集団化するというより、中世以来の集団のあり方を近世的な枠組みの中で再構築しようとしたと理解される。 そこでは、家々との縁戚関係を基礎に二神家から末家として数軒の家を起こし、また、婚姻、養子縁組によって末家との結びつきを強化した。末家との関係は、単に本家―末家の関係ではなく、二神家に継嗣がいない場合は、末家から当主として迎い入れようとした事例もあるなど、将軍家と「御三家」のような関係が二神家と末家のあいだには成立していたと考えられる。したがって、末家の石高の所持状況をみると、ほとんどの末家が二神家に次いで上位に名を連ねる。また、二神家の「家頼」についても、一般的にいわれる従属関係は抽出できない。「給田」や「給畑」を分与されただけなく、妙見社の祭事を司るなど重要な役割を担う存在であった。二神家は土地を通して家同士の結束を維持し、特別に二神家と関係がある家に対しては「支配地」を分与するなどして、島民とともに近世社会を生き抜いたのである。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {瀬戸内海二神家の近世的対応に関する試論}, year = {2016} }