@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00007986, author = {土井, 康弘 and Doi, Yasuhiro}, month = {Feb}, note = {日本で初めてリンネの植物命名法を紹介し、日本で最初の理学博士となった伊藤圭介(1803~1901)は、近代日本を代表する植物学者である。江戸幕府が創設した蕃書調所(のち洋書調所、開成所と改称)の物産方(また物産局ともいう)で天産物研究の規範を構築し、明治政府下では多くの著書や論文を著わした伊藤圭介。同人の学を最も継承した人物が、門人の田中芳男(1838~1916)であることに疑念をはさむ者は少なかろう。田中は、伊藤圭介が幕府蕃書調所物産方に在勤した時代に描いた構想を実現し発展させていき、明治・大正期に天産物研究を牽引していくことになったと考えられる。 「物産の培養」、「国内の物産調査」、「物産会の開催」、「蝦夷地および小笠原の物産研究」などといった圭介が描いた天産物の研究構想を実現していくなかで、新たな日本を構築するために田中芳男が果たした役割は大きい。むろん田中のみならず、賛同した人物が行った活動により大きな展開を見せた可能性は少なくない。河原田盛美(1842~1914)もそのような人物の一人で、明治七(1874)年に田中と内務省で接点をもちはじめたのか、後に二人は共同研究を行うようになっているから、圭介の天産物研究の構想を引き継いだと思われるのである。はたして、河原田盛美に影響を与えたと考えられる田中芳男は、どのような天産物研究構想をもっていたのか。いかにして師の伊藤圭介から、田中は構想を引き継ぎ実現していったのか。 本稿では、幕政期に蕃書調所物産方で伊藤圭介が主体となりどのような天産物に関する研究を行っていたのかについて、筆者の旧稿をもとに確認した。また伊藤圭介が物産方を去り田中芳男が中心となり活動した時期に、江戸幕府がパリ万博(1867 年)に参加するなかで圭介が成し遂げられなかった「物産調査」に関わる構想を芳男が実現していく過程を考察した。さらに、田中がパリ万博に出張するなかで、国際社会の中で日本を見つけ直すことができるような目を養ってきたと位置づけた。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所, 神奈川大学国際常民文化研究機構}, title = {伊藤圭介から田中芳男に引き継がれた天産物研究構想}, volume = {25}, year = {2017} }