@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00007985, author = {増田, 昭子 and Masuda, Shoko}, month = {Feb}, note = {明治政府の富国・殖産興業政策は官営工場や財閥系企業のみならず、過疎地の山間地の村々にも近代の特質として浸透した。近代の特質は貨幣経済中心の暮らしを民にも要求したことである。農家は暮らしを維持するために現金収入を得る道を切り開く必要があり、そのための殖産興業であった。そのことはどの地方においても同じで、どの産業に力点をおくかは地方の自然状況や風土、特産などによった。河原田盛美の出身地奥会津においては、その殖産興業の方策の第一が養蚕・生糸生産であった。 明治初期に明治政府の官僚となり、沖縄にわたった河原田は、当地域の物産、とくに、養蚕業への指導を提言した。河原田は具体的な養蚕具とその値段、関東における桑苗の値段、人件費などの提示をしており、河原田の当時の養蚕技術にたいする認識を示していて、そのレベルを知ることができる。 明治24年、奥会津の伊南村に戻り生家の家業を継いだ河原田は、とくに、養蚕と生糸生産・販売に従事、尽力した。河原田は沖縄でも奥会津でも殖産興業の視点で地域をみており、地域の民がどう暮らしていくのか、をさぐった。奥会津では村人へ農業・養蚕の技術指導、水田開発や植林など、また小学校設立にも尽力した。福島県会議員にも就任するが、今回は、輸出産業として有効な生糸生産とその輸送に焦点を絞り、地方実業家としての河原田を追った。奥会津が山間地のため物資の輸送手段の不便さをかかえており、横浜への生糸輸送に腐心する河原田を彼の日記を中心に分析した。輸送路の困難さをきわめたのが険阻な駒止峠で、明治39年からその大改修を行い、新道を開削した。彼はそのために福島県や国を奔走した。本論文は当地域の生糸生産とその輸送状況の実態を解明するのが目的である。河原田の奮戦に協同し、南会津郡全体の殖産興業に寄与したのが南会津地方の「豪農ネットワーク」である。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所, 神奈川大学国際常民文化研究機構}, title = {河原田盛美の地方からの殖産興業}, volume = {25}, year = {2017} }