@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00014205, author = {白石, 博則}, month = {Mar}, note = {紀伊半島の南部の熊野地方は、東西海上交通の要衝である。しかしその沿岸にあった港津の姿は、史料不足から明らかにされて来なかった。またこの地域には中世城館が点在するが、その歴史も明らかではない。この稿では港津と城館の関係性を追究することで、両遺跡が地域社会にどのように関わったかを解明することを目的とした。 中世において、港津と城館が接近する事例には、その背景に戦乱があったことがわかった。熊野地域は戦国期の十五世紀中頃から十六世紀中頃に掛けて、畠山氏の家督争いに関わる内訌や将軍権力の分裂に伴う戦乱が継続的に起こった。また、十六世紀後半の天正期には、熊野地域東部(那智山周辺)では新宮の堀内氏・米良実報院の勢力拡大に伴う戦乱が起こった。それに伴い、港津が戦乱に巻き込まれるおそれがあり、城館を築いて守らなくてはならない状況が生じた。特に紀伊半島西部では、十五世紀末以降戦いの枠組みが変化し、戦いの広域化・大規模化に対応して、城館が「群」として成立する傾向がある。戦乱と言えるほど大規模ではなくても、港津や集落が、外部勢力によって襲われる事態も起こったことがわかる。城館は見張りなどの役割を果たしたのであろう。 豊臣期になると港津と城館が近接する事例が見られる。それは大坂を核とした、統一政権による流通網形成の影響によるものである。しかし、熊野地域では港津を押さえるように城館が営まれる事例と、そうでない事例がある。その差異は築城主体の地域社会の中での位置付けが、関わってくると考えられる。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所, Institute for the Study of Japanese Folk Culture, Kanagawa University}, title = {熊野地域の港津と城館}, volume = {29}, year = {2021} }