@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00014169, author = {春田, 直紀}, month = {Mar}, note = {長大な海岸線を有し、全体的に山がちで大きな平野が形成されない紀州では、どの時代でも海辺部がもつ重要性は極めて高い。しかし、紀州で海辺村落の公称が「浦」に統一されるのは十七世紀であり、近世浦方以前の海辺部の様相は一つの像に結ばれていない。そこで本稿では、慶長十六年の「加子米究帳」に記載された紀州全域の浦々の浦方以前における制度的な位置づけを跡づけたうえで、多様なかたちで編成された中世海辺部の特徴を交通・生業・開発の観点から把握することにつとめた。「加子米究帳」に見える浦は中世にさかのぼると、①「荘」に含まれるものと、②「園」、③「御厨」、④「浦」、⑤「村」として編成されたものとに類型化できる。①では、河口・海辺部と河川流域とで荘域を構成し、河口部の潟の上に町場が形成されるケースも見られた。②と③は神社の神饌等を調達するために設定された所領である。④では年中行事にあわせた魚介類の供給により浦役を果たした事例などが認められた。⑤では在地領主の海辺部所領単位としての「村」や、神社に神役を果たす「村」が確認できた。後半では、中世紀州海辺部の特徴を多角的に検討した。交通の観点からみた特徴としては、東国と西国とを結ぶ海上交通の中継地であり、かつ河川交通と海上交通の結節点でもある港津の役割を指摘した。漁撈に関しては、釣船・魚名を冠した網・旅網、儀礼的漁撈について確認するとともに、中世漁村の系譜を引く近世浦の存在を想定した。中世紀州では「雑賀塩」がブランド化するなど製塩業も発展したが、賀太新荘の例では製塩労働の厳しい一面も指摘した。最後に、「ハマ田」「塩入」「塩地」という用語に注目し、海辺部での耕地開発の一端も明らかにした。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所, Institute for the Study of Japanese Folk Culture, Kanagawa University}, title = {浦方以前-紀州海辺部の中世的様相-}, volume = {29}, year = {2021} }