@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00013418, author = {木村, 裕樹}, month = {Feb}, note = {大日本聯合青年団は郷土振興のため、副業品の研究を重視し、青年創作副業品展覧会を開催した。これは地方の青年たちが製作した副業品を大都市で販売することを目的としたイベントで昭和3(1928)年から昭和11(1936)年まで、都合9回開催された。優秀な作品は表彰されたほか、宮内省より御買上の栄に浴することもあった。 本稿は大日本聯合青年団が奨励した副業品の研究に青年たちがどのように取りくんだのかを、青年創作副業品展覧会に焦点を当て明らかにするものである。その際、青年団の事例として、山形県新庄町の最上共生青年会を取りあげた。新庄町には昭和8(1933)年、「雪害救済運動」にもとづく農林省積雪地方農村経済調査所(「雪調」)が設置された。「雪調」は雪国の農山漁村の経済更生を目的した機関であるが、特産品や副業の開発にも従事した。昭和12(1937)年以降は、民藝運動の拠点ともなっていく。一方、新庄町の青年団は大日本聯合郷土資料陳列所に多数の資料を寄贈したほか、同所の公募研究にも積極的に応じていた。 青年創作副業品展覧会の入賞者には、複数の農民美術の団体が発表の場としていたことや、女子青年の活躍がみられたことが明らかとなった。また、販売を前提とした出品物は実用品であることが求められた。 最上共生青年会は雪害救済運動に貢献した一青年、小野恵敏が中心となり創設された。その活動は昭和9(1934)年、大日本聯合青年団郷土資料陳列所の大西伍一が新庄町を訪問したことを機に活発となる。同会は陳列所に多数の資料を寄贈したほか、大日本聯合青年団が主催する公募研究にも積極的に応じた。とくに青年創作副業品展覧会に出品され、宮内省御買上にもなった胡桃細工「福雀」は小野が宣伝、販売につとめたものである。惜しくも小野は30歳を前にして早世するが、その後、青年会の活動にとって代わるように「雪調」に誘致されたのが民藝運動であった。ただし、両者のかかわりについて、確固たる証拠を未だ見出すことはできていない。とはいえ、青年たちによる副業品の研究が民藝運動を受容する下地をつくった可能性があることを、本稿では指摘しておきたい。, Book, 第1部 論考篇}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {青年による副業品の研究 -山形県新庄町の最上共生青年会を事例として-}, volume = {28}, year = {2020} }