@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00013417, author = {小林, 光一郎}, month = {Feb}, note = {本論では、1920~30年代において、当時形成されつつあった民俗学と1925年に創立した大日本聯合青年団との関連性について、柳田國男らの民俗学と並行して物質文化や水産史などの研究を行っていたアチック・ミューゼアム(以下、アチック)と大日本聯合青年団の関連性、なかでも大日本聯合青年団郷土資料陳列所(以下、陳列所)に勤めると同時に、アチックにおいて「漁民傳」の編纂作業を行った大西伍一(以下、大西)を通してそれらの関連性を見ていくことを主旨とした。 大西の青年一人一人に合わせた教育という大志は、大日本聯合青年団における「一人一研究」奨励や陳列所における活動を通して当時の民俗学へと影響してゆき、柳田やアチックへと広がりを見せながら更なる発展・昇華してゆく可能性を秘めていた。また、そのような活動に連動した大西の成果では、大西作成の『郷土研究家名簿』(以下、名簿)が連絡手段としての有用性や人的ネットワーク作成という草創期である当時の民俗学界に大きな貢献をしており、アチックでもこの名簿作成がなければアチックの通信調査の元となる名簿作成が困難であったと推測され、調査における郷土の人脈網が変わっていたと考えられる。他にもこれら大日本聯合青年団における大西自身の人脈は、名簿に代表される郷土史家だけでなく、直接アチックに関わるような地方の人材(吉田三郎)、陳列所関係で知り得た人物(進藤松司)といった人脈(≒青年)をアチックに紹介することにもなった。特に郷土研究のモデルともいえる吉田とアチックとの出会いは、その後のアチックの研究に対する思考・姿勢やそれに伴う地方研究者への研究奨励といったアチックの方針を一定の方向へと決定づける機縁となったともいえるものであった。 このような大西の大志はこのまま実を結ぶかに思えた。しかし、当時の時代性を受けた陳列所の閉鎖という物理的な影響、またその時代性とともに変わっていく大日本聯合青年団の変化(後ろ盾でもあった田沢の理事長辞職に伴う影響)によってその大志が実を結ぶことなく終息してしまったのである。, Book, 第1部 論考篇}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {アチック・ミューゼアムと大日本聯合青年団の関連性 -アチック同人大西伍一を事例に-}, volume = {28}, year = {2020} }