@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00013416, author = {室井, 康成}, month = {Feb}, note = {本稿は、日本の青年団が、国民国家の形成過程において、その成立を地域において後押しし、最終的にはファシズムの担い手になったとする評価について、同様の見方を示した作家の司馬遼太郎の言説を分析することで、反証を加えることを目的とする。 司馬によると、中世の自立的な村落であった「惣村」は中世の終焉とともに解体されたが、その気風は徳川時代を通じて温存され、その残滓が、旧薩摩にみられた「郷中」などの下級武士の若衆組織だという。そこでは成員の「公」の意識の拡大範囲は「村」や「郷中」を限度としたが、司馬は、明治国家がそれらを解体することで、人民の「公」意識を直接国家に接続し、それまで「村」や「郷中」を運営する主体であった若者組織を、徳川時代以来の卑俗として廃止し、代わって青年団を各地に設置することで、「村」と「国家」とをつなぐ媒体に仕立て上げたと批判した。 だが本稿での検討の結果、むしろ青年団は、村落基盤の弱体により衰退に向かっていた各種の民俗を組織的に担っていく役割を果たしたほか、生活改善などの担い手になっており、単に中央の出先機関のように捉えるのは一面的であることが明らかになった。さらに青年団とその中央組織である大日本聯合青年団の設立に尽力した田沢義鋪は、国家に従属した人間像には否定的で、青年には自らの将来を主体的に切り開いてほしいと願っており、そのために彼は青年団を政治教育の場として捉えていた。 しかし、昭和に入り政府主導の選挙粛正運動(事実上の選挙干渉)が実施されると、青年団はこの運動に絡めとられてゆき、最終的には、政府の施策を地方青年に「教化」するための主体となり、同時に青年そのものが、政府からみて教化の対象になったのである。いわば戦時動員の時期に至り、青年団は司馬の見立てたような機能を発揮し始めたのであり、それは各種団体がそうであったように、ひとり青年団のみに帰される責任ではなく、戦時動員の体制の中で、青年団もまたその流れに抗し得なかったに過ぎないという結論を得た。, Book, 第1部 論考篇}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {選挙粛正運動と青年団 -司馬遼太郎の“ 若衆” 観からの問い}, volume = {28}, year = {2020} }