@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00012928, author = {菊田, 榮四郎 and 千葉, 勝衛}, month = {Feb}, note = {戦争により壊滅的な損害を受けた遠洋漁業も、政府の戦後復興資金の融資を受けて造船し、港には徐々に船が増えていった。大島の前川漁業部でも、昭和22(1947)年に栄丸を建造し、地元の船員を乗せて平和な海へと船出していった。 昭和30(1955)年に入ると漁船は大型化され、装備も充実したので南へ北へと新漁場を開拓していった。折からの高度経済成長期と重なり、遠洋漁業も好景気を迎えたのであった。 こうした好調の中で、乗船員不足が叫ばれるようになったのは昭和40(1965)年代頃からである。このころ、気仙沼船の船員の充足率は80%ぐらいで、必要人数が揃わず出航を見合わせる船も出るほどであった。40年代後半には、定年や減船で下船する人も多くなり、人手不足は深刻となっていった。 昭和43(1968)年、大島中学校卒業生の進路では、遠洋漁業就業者は17名もいたが、同48(1973)年以降中卒船員は年々減少していった。 当時、気仙沼水産高校に漁業科があって、その卒業生は昭和58(1983)年には62名が漁船員となったが、ここでもそれ以後、年々激減し、平成10(1998)年代には皆無となってしまった。 平成4(1992)年に、漁業者確保対策委員会が水産高校生に行ったアンケートによれば、漁船就労上の不安として長期航海をあげる数は34% となっている。1年以上にも及ぶ長期航海が、遠洋漁業を敬遠する最大の要因となっていたのである。 日本人船員不足をカバーするため外国人船員の混乗が始まったのは、平成元(1989)年頃からである。当初は2 、3人の混乗であったが、最近では船長・機関長などの法定職員を除き、他はすべて外国人で操業する船も出てきている。 こうした中で、平成30(2018)年2月の三陸新報は、地元学卒者3 名が乗船したことを報じていた。かつて多くの漁船員を輩出した大島地区では、新卒船員が絶えて久しくなる。しかし、この広い海がある限り、いつの日か復活することを期待したいものである。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {戦後の遠洋漁業 -後継者不足で外国船員混乗で操業-}, volume = {27}, year = {2019} }