@book{oai:kanagawa-u.repo.nii.ac.jp:00012926, author = {小山, 由紀子 and 千葉, 勝衛}, month = {Feb}, note = {明治初年に大島には約50人の漁船経営者がいたと伝えられていたが、その中には持ち船のない経営者もあって、問屋筋から運上金を払って船を借り、船元となって漁船経営を行う人たちもあった。この人たちは船の外に経営資金も問屋から借りることが多く、漁獲した魚の水上げは問屋優先で行われていた。漁期末に水上金を精算する「値立て」では、債務者である船元や船員代表が魚価の交渉をするのであるが、債務を負った船員側の発言は弱く、問屋に押し切られることが多かったと伝えられている。 経営基盤の弱い大島の経営者たちは問屋から安易に借入し、それがいつしか増大し、しかも複利計算で高額の借金として請求され、忽ち困窮に陥り事業中止や最悪の倒産に追い込まれた人たちもあった。 特に、明治30(1897)年代以降は不漁が続き、事業中止や倒産の経営者が続出した時期であった。このころ漁船経営した旧家を調査してみると、「和船経営に失敗して多大の借金を背負い、その返済に苦労した」という話を多く聞かされた。 事実、役場の土地異動簿には他町村民所有に異動した記録が残されていた。昭和7(1932)年の統計には、大島の土地を所有する他町村民の数は37名で、その面積は14町5反3畝とある。 この数字には和船時代に異動したものもかなり含まれていると推測することができるのである。 明治中期は大島でも大型和船が造船されたり、経営者も元船、新船と複数の漁船を経営する船主もあって、和船漁業が発展した時期であった。 しかし、その経営は藩政時代からの旧慣を踏襲したもので、特に漁船員の賃金については昔ながらの「前貸し・歩合制」を基本としたものであった。 明治39(1906)年静岡県の富士丸が漁船の機械化に成功すると、その成果は急速に波及し同じ年に、気仙沼でも機械船が走るようになった。しかし、和船経営で疲弊した大島の経営者たちは機械化への意欲も資金も喪失し、沈滞ムードで機械船の夜明けを迎えたのであった。, Book}, publisher = {神奈川大学日本常民文化研究所}, title = {和船時代の沖合漁業 -資金難と不漁で苦労した和船経営-}, volume = {27}, year = {2019} }